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「 井上 弘」さん

更新日 : 2015年07月24日

8月15日 小田原市民会館6階第6会議室「 戦時下の小田原地方を記録する会 」事務局 井上弘先生による”終戦当日の小田原空襲”

終戦から70年。忘れてはならない過去の非道「戦争」。終戦日にあたる8月15日は戦争について伝承していく「戦時下の小田原地方を記録する会」主催の催し物に参加。過去の記録が鮮明に事務局 井上弘先生が話された。

ちょうど今年で70年目。

当然、我々は経験したことがない「戦争」について。

 

しかし、この戦争というのは少なからず人間として必要最低限の知識や過去については知っておかなければならないのも事実であると思います。

お盆でも記事を書きます!福井です!

8月15日。終戦記念日。いや、敗戦記念日だろうか。

 

この日は日本国民にとっては誰しもが過去を振り返る日なのではないだろうか。

 

そんな本日、小田原市市民会館6階6会議室にて「 戦時下の小田原地方を記録する会 」事務局 井上弘先生による"終戦当日の小田原空襲"と称した講演会が行われた!

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小田原空襲への道

史上初の空襲と言われているのはどこの国がどこの国に仕掛けたかわかりますか〜!?

実は、史上初は1937年のナチス・ドイツがスペイン・ゲルニカに対して行った空襲なのです。

日本が行った初の空襲は1938年の重慶空襲だそう。この時合計218回の空襲を。

 

実際にアメリカ軍が作ったという戦作の空襲リストというのを見せてもらったが、リアルすぎるのだ。

このリストに小田原はOSAWARAという誤表記であったがしっかりと記入されていた。

しかし、空襲を完了したマークがなされていない。

なぜここまで綿密に記録しているアメリカ軍が小田原への空襲記録がないのかが疑問である。

 

綿密に書かれている地名に小田原以外にも空襲を完了したマークが描かれていない地名がある。

横須賀や京都・八戸や札幌だ。

 

なぜだかわかるだろうか。横須賀は戦後のことを考えていたのだろう、現在の基地に使うからだろう。

そのほか、燃料が足りないだとか、アメリカ軍なりに何かしらの戦作があったのだろう。

 

この講演会にきているご年配の方に話を聞いたところ、その方は小学生で母親に起こされて走って箱根方面に逃げたのこと。火事がすごい勢いで迫ってきて怖かった思い出がある。夏休みなんて海で遊ぶことは考えられない。街中に軍人があちらこちらにいたとのことだった。

 

戦争に関しては様々な意見が飛び交うだろう。

 

しかし、歴史として国民なら誰しもが知っておきたいことである。

 

 

この戦時下の小田原地方を記録する会は定期的に講演会を行ったり、以下のような冊子も発行しているという。

 

また、講師の井上弘先生は本も発売しておられるそうで、詳しく知りたい方は是非購入を!!!

小田原地方への空襲

小田原地方への空襲は1945年にグラマンと言われる小型機によるものだった。

この時一番最初は湯河原町、下曽我、富士フィルム、理研山北、二宮と付近を順々と合計50名弱という記録が残されている。

 

小田原空襲

1945年8月15日 AM1-2:00

B29 死者12名 焼失家屋400軒

定期的に発行されている冊子

井上弘先生著作の本

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